20191220

1.43km

5:05 4:55/km

今日はクリスマスランチの予定があったので、食後2時間も経過しないうちに走ることになった。トレッドミルではなく、大地を日が暮れないうちに走りたかった。わかってはいたのだ。今週の日曜日にハーフを走る予定なので今日は4キロをキロ5分10秒の閾値Tペースで走ろうと考えていた。やはりうまくいかなかった、1キロを過ぎて胃がポチャポチャ言ってくる。胃内部に水分と食物が存在していたのか。ポチャポチャという音と腹痛への序奏が感じられる。2キロいかずにギブアップ。こうして、ハーフに向けた最終スピード練習は終わりをつげた。プラス思考で考えると、右前脛骨筋付近に若干の痛みが感じられるため、無理して4km走るよりもこのへんで切り上げておいた方がよかったかもしれない。とりあえず、今まで13km走まではやった。5kmだけなら25分を切って走れるスピードも身につけた。だから、ハーフをキロ6分くらいで走るくらいの走力はついているに違いないと思いたい。

 ところで、人間には意思がある。単細胞の赤痢アメーバ、膣トリコマナス、ランブル鞭毛虫は動いているようだが、あいつらにわたしのような意思はまさかないだろう?
ないということに科学上はなっているよな。私が自動運動のモードに入って、身体から自動的に生成する動きに身を任せている時も、決して私は意思を手放してはいない。その動きを冷静に観察する意思が存在している。そういった意思は進化の上で役に立ったのだろうか?たとえば、免疫システム、自己の身体にとって害悪となる存在をやっつけるとき、私の意思は介在しない。心臓や肺が身体に血液と酸素を送り届ける微妙な塩梅を見つける時、私の意思は介在しない。このように、私の意思が介在しないシステムが至る所で私の身体を動かしている。意思がなくてもうまく身体を動かせるはずなのに、なぜ意思があるのだろうか?そうふと、さっきシャワーの時に考えていた。ランナーには怪我に悩まされている人が多い。競技者で怪我を経験していない人の方が少ないかもしれない。もし、意思がなかったら身体は怪我なんてしただろうか?意思がもっともっとと求めるあまり身体の機能を超えてしまう。一方で、身体の潜在能力からするとまだまだいけるはずだけれども、意思がブレーキをかけるときもある。意思は、アクセルとブレーキの役割を果たしている。それがなぜ必要だったのか??